かもねぎプロフィール
まあ、ありきたりのプロフィールをここで少しだけ発表いたしましょう…。
性別…♂(文章だけでは意外とよく♀と間違えられる。なぜだろう?)
生まれ年…1966年(昭和41年)
出生地…神戸市葺合区(現在の中央区)
居住地…西宮市
ネット歴…パソ通は90年12月から、インターネットは97年10月から…



★ パソコン通信を経てインターネット開始まで…

■ パソ通を始めようと思ったワケ…
今はインターネットが普及してすっかり淘汰されてしまったパソコン通信は、 85年に登場し、1988年頃から一般へ認知され始めた新しいコミュニケーションでした。
90年に入ってから転職し、実家のある西宮へUターンすることになった私・かもねぎは、 こっち(関西)に戻ってみると、休日に付き合う友人もいない…。とにかく毎日が退屈で仕方がない。
当時、名古屋に住んでいた友人がパソコン通信をしていて、そいつからパソ通の話を聞くと結構面白いらしい。 パソコンは扱ったことなかったけど、前の会社ではワープロを使いこなしていたので何とかなるやろ!と、 軽い気持ちでノートパソコン(22万8千円)を買いました。
ちなみに当時の私にはゼロが6つつく多額の借金がありました。 なのに20万もするパソコンを張りこんで買ってしまうとは危機感ゼロだったのか〜(^_^;)。 数百万程度なら返すアテもあるだろってわけで…。 おかげで徐々に減っていた借金は、90年秋から冬にかけて少し増加してしまいました。 ちなみに借金の利息だけで最高で月5万くらいあり、 月10万を返済しても元金5万しか減らないというツライ状態でした。

今なんてパソコン買って電源入れたら、もうその日のうちにネットに繋げるわゲームはできるわという素晴らしい環境ですが、 ひと昔前のこと知ってる人だったらわかると思いますがパソコンは「買ってもタダの箱」だったのです。 パソコンを買っただけでは何も出来なかったのが当時のパソコン事情。 別にOSソフト(MS-DOS)が必要で、これが1万円程度。 それからワープロソフト、ゲームソフト、通信ソフトなど、 個人で楽しむためのソフトは自分で好きな物を一つ一つ取りそろえていくのだけど、 借金地獄の私には高価なソフトなどとても買っていられない。 そこで、通信ソフトとワープロソフトが一緒になった「ユーカラウェーブ」という破格の1万円のソフトを購入。 値段が安いだけあって、すごくバカな漢字変換してくれるし、使い勝手はとても悪い。 とにかく苦労しました(^_^;)
さて、ソフトを買ったら次はモデムを買わなくてはいけない〜。 モデムはだいたい29800円。ソフマップでカードを使って買おうとしたら 「5%増しになります…」(ォィォィ)
5%増しになってもいいや…と、とりあえずソフマップでモデムを購入(NEC-コムスターズ2424/5) ちなみに2400bps MNP5というのは、当時としては最新型でした。
さーて、これでカンペキ〜。


■ パソ通のスタート…
とりあえずモデムの中に入っていた1000円分のニフティの無料アクセス権を使って ニフティに入会。PC-VANには入りませんでした。
あと、草の根ネットという個人がやっているネットの話を聞いていたけど、 どこにどんなネットがあるのかがわからない。 とりあえず名古屋の友人が加入している愛知県の多回線ネット(ネットシャドウズ)に入ることに。
ちなみに、そこまでの電話代はNTTで8秒10円、深夜時間帯で15秒10円とか、 そんな感じの高い電話料金でした。(ずいぶん前の話なので正確な料金は忘れてしまいましたが)
ネットに繋いでくるのは名古屋市をはじめ春日井市、一宮市といった愛知県北部のユーザーが多く、 とっても賑わったネットでした。
その後、友人から大阪のネットを教えてもらって(SONOKO-NETと、カプコンがやってるC&Cネット) アクセスする比重も愛知のシャドウズから大阪のSONOKOとC&Cへと移っていくことになります。


■ 地元ネットで爆発!!
各ネットに接続すると、BBSリストというものが大抵置かれていました。 インターネットでいう「リンク集」と全く同じ物です。 そのBBSリストを見ると、地元の西宮や宝塚のネットもたくさんあるということが判明。 地元ネットに手当たり次第アクセスして、会員になりました。
1990年の年の瀬が押し迫ってきた頃、 西宮の仁川にあった「DH-NET」というBBSにアクセスした時に、 チャットに誘われました。 相手はこのネットに常駐する男子高校生だったのですが、 以来、このDH-NETでのチャットにどっぷり浸かってしまうとは夢にも思いませんでした。 そしてこれが自分の人生をも大きく変えることになったのです。 今思うと、この時、チャットに入らなかったら今の自分は無かったと言えます。 この日以来、毎晩このDH-NETでの書き込み&チャットが日課になりました。

ちなみにこのDH-NETは93年春頃に閉鎖となってしまいます。 バブル崩壊後の経営不振から、運営会社のリストラ対象になったわけです。 このDHネットで知り合った何人かの人たちとは、ネットが無くなったあとも交流はありましたが、 95年の阪神大震災を契機に引っ越した人や行方がわからなくなってしまった人もいて、 ちりぢりバラバラ。今も年賀状やメールなどで付き合いがあるのは、ごくわずかです。


■ 自分でBBSを開く
ネットワーカーなら、自分でネットをやってみたいと思うようになるもんなんです。 私もそうでした。で、91年の8月に開設しました。 ネットを開くと言うことはパソコン1台・電話回線1本をネット専用で使うこととなるので インターネットでホームページを開設するのとは少しレベルが違うな…。 自己サーバーを開設することと同じようなことですね。 お金のある人は24時間運営で、さらに多回線ネットを開いていたところもありました。 たとえば私が最初に入った「ネットシャドウズ」も個人運営で7回線もありました。 月々の電話基本料だけでも大変だったことでしょう…。
私の場合は、最初に買ったノートパソコンを売り払い、その後に買ったエプソンのデスクトップ機をホスト用に充て、 電話回線は以前から自分専用で維持していたので、それを使用。 そして最初は深夜時間帯のみで時限運営、その後は24時間運営としました。
ユーザーはDHネットをはじめ、私が当時アクセスしていた明石市の個人運営のネットや、 大阪、西宮のネットから集めました。

9月にはオフ会を開いたのですが、予定日前日に超大型台風が日本列島を来襲。 91年の台風19号です。九州を横断し、日本海に抜けたあと再び東北地方に上陸し、 青森県ではたくさんのリンゴを落とし、別名・りんご台風と呼ばれた、あの台風です。 兵庫県でもものすごい風が吹き荒れ、電柱のトランスが各所で爆発・炎上し、 大規模な停電被害も出しました。幸い、ウチは30分程度の停電で済みましたが、 神戸市西区のネットワーカー宅では3日間も停電に遭ってアクセスできなかったとか…。
そんな台風の翌日のオフ会、参加者は私を含めて5人だけでした〜。寂しい。


■ ネット閉鎖・譲渡…しかし…
仕事が忙しくなってしまいました…。
90年に転職し、次の仕事の繋ぎとして神戸の会社で準社員扱いで1年間働き、 91年春からは知り合いのコネで大阪の番組制作会社に入ることができました。 しっかし、この仕事が忙しくなり、ネットの運営にまで手が回らない。 特に92年に入ってからはより一層しんどくなる。 ちょうどネットをしたいという人がいたため、わがBBSをその人に譲渡することとしました。 これが92年のゴールデンウイークの頃。
ところがこの人、私がネットを譲渡させてから1ヶ月もたたないうちにネットを閉じた。 理由を「ホストに使用していたパソコンが壊れてしまったから」と言う。 それから1週間、2週間しても復活する気配がない。なんだか閉鎖理由もあやふやだったので、 本人が飽きてしまったんでしょう。やる気があるなら自分がアクセスするマシン犠牲にしてもネットを継続するはずです。 でも彼はそれを全くしなかったワケだから…。
このまま無くしてしまうのは悲しすぎる。で、結局7月になってから非公式BBS・すなわち内輪専門で期間限定・時限ネット 「かもなべ城」として私が再オープンさせました。
当初の運営時間は金・土・日の午後11時から翌朝7時までの超超時限サイト。 その後、7月20日からは運営時間を毎日に広げ、夏休み期間中の8月31日まで運営を続け、再び休止しました。
なお、92年の夏には20数名が集まり、武庫川河川敷で大規模バーベキューオフ会を開催しました。


■ 好評・かもねぎ城…
超超時限サイト・かもなべ城は、92年冬休みバージョンから『かもねぎ城』と名を変えました。 今も使用している『かもねぎ』という名は、92年12月から使用を始めたわけです。 この『かもねぎ城』、時限・期間・内輪限定ネットなのに結構好評。 さらに内輪ユーザーも勧誘して増加。アクセス・書き込みともに常設運営のネット並の賑わいでした。 しかし、やはり仕事の多忙さもあり、今まで通り学生の休み期間中のみ運営という方針は変えず、 1月15日で「かもねぎ城」は終了させました。
しかし、この冬休みバージョン以後、しばらく開設することはなくなります。


■ 車を買ってしまった…
93年になって軽の中古買いました。行動範囲広がりました。 当時の借金額も100万円台にまで下がり、あと2年ほどで完済できる目処がたってたとはいえ、 これはでっかい買い物です。
しかーーし、買った車はいろいろとトラブル続き。それに月々の駐車場代2万円も痛いし、 やっぱり借金返すのが先だってので、しばらくしてから車は手放しました。
ちなみにこの頃、勤めていた会社ではリストラの動き。会社自体の存続がやばくなって ケーブルテレビ会社へ出向させられることになりました。とほほ〜の連続…。


■ 食べ歩き趣味の始まり…その1
食べ歩きが趣味になったのは93年頃だと思います。 同じ職場の先輩(4つ年上)に、食べ歩き大好きな人がいました。 その人に連れられて、毎週のようにいろいろな店に行きました。 ただ、私には当時、借金があったことをお忘れなく。 千円程度の食事に関しては別段、問題はないのですが、1度の食事が4千円、5千円という額で、 これが月に1度か2度ならまだしも、週に2度とかになるとものすごく辛い…。
ある日のことです。仕事帰りに会社の者達で7千円のコースの海老料理食べに行くという話になったのですが、 このツライ時期に7千円ってのは…。
誘われた時に「持ち合わせがないので…」と断ったけれどその先輩は 「お金の心配はしなくていいから来いって…。」
ん?心配しなくていいの?おごってくれるってことか?
そう判断した私は、断りを撤回・参加に転じました。
美味しい美味しい伊勢海老料理。お会計〜の際に先輩はカードでお支払い。 なんという太っ腹なお方…。感激しますわ〜(T_T)/ と喜んだのもつかの間、 参加者全員から8千円を集め始める。そして私に一言、
「おまえは今度でエエわ。来週にでも8千円払ってくれ…」

・・・・・・・・・・・・・・まさしく青天の霹靂・・・・・・・・・・・・・・・

おいおい、それに7千円やないのんか〜?と心の中で叫んだけど、7千円にサービス料10%がかかり、 それに3%の消費税がかかって7931円、切り上げて8千円にしていたのだ。
次の週の月曜の朝、先輩に8千円出しました。

今でもこれ、トラウマになってます。


■ 食べ歩き趣味の始まり…その2
先に出た先輩のほか、食べ歩き趣味に関わった人がもう一人います。
93年当時『かもねぎ城』を復活させずに、私はDHネットで知り合ったユーザーが運営していた 「コンバットネット」という西宮のBBSに常駐していたのですが、 ここに「かもねぎ亭」というボード・いわゆる掲示板を作ってもらい、 グルメネタと地元ローカルネタで盛りあがっていました。
(ちなみに、ここコンバットネットの当時の管理人(シスオペ)とは現在も交流が続いています。)
盛りあがっていた…というと言い過ぎか。単回線ネットとはいえ300名以上のユーザーを有するネットでしたが、 定期的にアクセスしていたのはその3分の1くらいの約100人、書き込みしているのはさらにその3分の1、 その書き込みしている30名ちょっとのうち、グルメネタに興味ある人なんてのはさらに少ない。 今思えば、一人で盛りあがっていたような気がする(^_^;) サミシイ…
そのコンバットネットに新しく入ってきたユーザー「のむ」さんとの出会いは、 さらに私の食べ歩き趣味を大きくしてくれました。彼は私より1つ年上の尼崎在住の方で、 「飲む」のも「食べる」のも大好きな、まさに食べ歩き趣味の典型のような人でした。 連日のように誘われて、いろんなとこ連れてってもらいました。
ただ、前にも書いた通り、借金返済に追われていた頃であり、少しツライ物がありましたが(^_^;)
のむさんの幹事、私の幹事により、94年には出石そば巡りオフ、各種飲み会、食事会、 また、ネットの人たちを誘って深夜の京都・奈良のラーメン屋行脚するようになったのもこの頃からでした。 とにかく、この頃は楽しかった。 ただ、わたし達がメインとしていたコンバットネットが94年2月に閉鎖となり、 今後の活躍の場はユーザーの一人であった方が運営していた池田市のネットへと移行してしまいます。


■ 阪神大震災
95年1月15日。私は名古屋で知人の結婚披露宴二次会に参加し、徹夜で三次会まで過ごしました。 翌16日は知人宅で仮眠したあと、新婚旅行でオーストラリアへ旅立つ知人夫妻を名古屋空港へお見送り。 そして私は一人、名古屋駅からJRで西ノ宮駅に着いたのが11時半近く。 ツタヤでビデオを借り、家に着いたら0時過ぎ。とことん疲れてすぐベッドに寝てしまいました。
そして1月17日の未明の、あの大地震。 揺れてると感じてたけど、その間も眠り続けてました(^_^;) (夢だと思っていた) しばらくして目覚めて、今、何時だろ…と、ビデオのタイマーを見ようと思ったら、点灯していない。 窓越しに外を見たら、シーンとしてて真っ暗。近所の人が懐中電灯照らして外に出てきている。 んー、今のは本当の地震やったんかなーと感じる。
ま、これが阪神大震災の起きた瞬間に、私はどーしていたかというヤツです。
朝7時過ぎに電気が通じて、テレビを見ると、あらあらビックリという感じです。 高速道路がひっくり返ってるなんて…。
そして朝から次々とネットの人たちから電話がかかってきました。無事を確認する電話です。 安否確認した結果、ほとんどの方は無事だとわかってひと安心。 でも、何人かの家は電話も通じず、17日の夜と18日の2度にわけて神戸へ安否確認に出むきました。 そのほとんどは大丈夫だったのですが、安否確認に行ったうちの1軒の家は無惨なまでに倒壊してた。 (あとで人から聞いたところ、妹さんが亡くなっていたとか…)


■ 震災からしばらく過ぎて…
2月になると平常の生活に戻りつつありました。 関学では入試がスタートというニュースをしてました。 そのニュースで流れていた映像を見て「ゲッ…」と思った。
倒壊したマンションの横を歩いて受験会場に向かう受験生たちの映像が映し出されていたのですが、 その倒壊したマンションこそ、DHネット時代に親しくしていたユーザーが住んでいたマンションだったのです。 上甲東園だし鉄筋のマンションだし高台だし地震の被害はないだろうと安否確認もしてなかったのです。 付き合い自体はDHネットが無くなってしまってから疎遠になっていたのですが、 なんだかすごーーく心配になってきました。
するとその翌日、ななななんと、その上甲東園の倒壊マンションに住んでたヤツから電話がかかってきた。 これにはビックリ! 地震のあとは自分が勤めている宝塚の会社に暫く避難していて、2月からは尼崎に転居したとのこと。 その後、彼からは横浜に転勤になり引っ越ししたとの葉書が届きました。


■ やみなべ城…
93年から95年にかけて、我が家では「闇鍋」と称した鍋オフをよく開いていました。 わが部屋は収容人数が8名程度に限られるため、毎月開催していても呼ぶメンツを毎回変えてました。 そんなわけで、いつしか我が家は「やみなべ城」と言われるようになったのです。 そんな名前をネットにつけてしまいました。
94年から神戸市灘区、東灘区、須磨区、明石市、池田市、それに神奈川県の横須賀市にあった6つのBBSがリンクで結ばれていたのですが、 95年からは、さらに西宮市の門戸、鳴尾町と、静岡県榛原町、香川県志度町にあった4つのネットも加わることとなり、 その4つのBBSと先述の6つのBBSとのリンクの橋渡しをするためのネットを私が開設することになり、 そこで95年夏に『やみなべ城』を開設させます。93年1月に閉鎖させて以来、2年半ぶりのネット再開でした。 のちに、やみなべ城は、再び「かもねぎ城」と変更されますが、 リンクの中継という役割はその後、リンクサイト同士で接続させることで解消。 「かもねぎ城」のネット自体は96年秋頃まで継続し、その後、地元高校生により開局されたネットに引き継がれました。


■ 世はインターネットの時代…
97年に入ると、BBSユーザーの中にもインターネットに進出する人が目立ってきました。 BBS上でインターネットの話題を出されてもインターネットに繋いでない私には、それがちんぷんかんぷん。 しかし現行のパソコン環境ではどうやら無理っぽい…ってんで。新しいパソコン購入後にインターネットするぞー計画を発動させました。 というわけで、97年の8月に新しいパソコンを購入。
ちなみに私の人生の負い目であった借金ですが、95年春には、すべて完済させていました!(^o^)/
加入するプロバイダについては、とても悩みました。 月あたりの料金が安くて、BUSYが無く、そこそこ速い。西宮にAPがあって、 ホームページに使うディスク容量がそこそこある…となると、すごく限られてしまう。
結局、その条件すべてに当てはまるのはスリーウェブしかなく、スリーウェブと契約することなりました。 それが12月。 それまではQ2ネットや、ぷららの無料アクセス(朝8時から夜7時まで接続できる無料サービス)を 利用しての接続を続けていました。
さてさて、インターネットをはじめるにあたり、インターネット版「かもねぎ城」の復活を考えていたのですが、 ホームページの構想は、97年8月には出来上がっていました。 ホームページ制作ソフトをいろいろと試してみたけれど、どうも使いにくい。 結局、ソフトは一切使わず、手打ちでタグ入力したテンプレートファイルを作り、 それをコピー・ペーストしながらのホームページ作りになってしまいました。 で、この基本作業は現在も続いてます。
最近は、もっと便利なソフトが出ているかもしれないけど、この手打ちにすっかりと慣れてしまってソフトが使えない…(^_^;)


■ ホームページの開設
念願のホームページ「かもねぎキャッスル」を97年の12月下旬にスタートさせました。 当初はスリーウェブ上に置き、掲示板のみでスタート。 その後コンテンツを増やし、97年秋から準備していたラーメンページも98年1月23日にスタートしましたが、 当時は「かもねぎキャッスル」の階層下のコンテンツになってました。
ちなみにラーメンページについては、構想段階では「京阪神」をエリアとするラーメンページとしてオープンさせる準備を進めてました。 いろいろなラーメン系のサイトを見ていると、関西全域を対象としたサイト、京都を対象としたサイトは、たくさんとは言えなくてもいくつかある。 しかし、いろいろ見ていると神戸市西部(垂水区など)から西の明石や加古川、姫路のラーメン店を紹介しているサイトが一つもないことに気づきました。 私個人も、明石市や神戸市西区まではいろいろ行っていたけれど、加古川や姫路など、県西部までは足を伸ばすことがなく、 ほとんど未開の地だったので、ならばこの機会に加古川・姫路方面へも行ってみようかと思うようになる。 てなわけで対象範囲を播州地方まで広げることにしました。 となればホームページのタイトルの「京阪神の…」ではちょっと変。 まあ、関西全域・京都や大阪の情報は多いのだから、 情報の少ない兵庫県限定でいって独自性を出そうか…と、 当初の計画から変わって対象範囲を兵庫限定でスタートさせることとなります。 写真もあったほうがいいだろうってことで、前年の12月にはデジカメを購入しておりました。


■ さよならパソ通…
98年の春になると、私が常駐していたBBSが閉鎖されてしまいました。 理由はパソコンの故障。復活してもインターネット時代の今、賑わわないし、 そんじゃあ閉鎖だ…と、なくなってしまったのです。
さらに、私が高校生ユーザーに譲渡したネットも99年夏には閉鎖されました。 理由はやはり、アクセスユーザーのインターネットへの逸脱・そして閑散化によるためでした。 私個人的にもパソコン通信ネットには99年春以後はアクセスしなくなっていました。 90年11月に始めてから8年と6ヶ月。なんとも寂しい幕切れです。



★ 兵庫のラーメンページの歴史。開設時から現在まで…

■ 開設直後のようす
98年1月23日にスタートさせた「兵庫のラーメン屋さん」ページ。 開設当初のアクセスはBBS時代からの仲間内がアクセスするに留まり、 アクセス数は1日に10前後でした。 2月になり、ホームページ宣伝のメールマガジンで宣伝を流したこと、 「ご近所さんを探せ…」での宣伝をしたことで1日20〜30件程度に増加。 しかし1週間もすれば15アクセス/日程度の流れに落ちました。
2月中旬になってラーメン掲示板を開設。1日15件程度のアクセスしかないので当然、書き込みは少ないものでしたが、 その後、ご近所さんを見た「あじあの話・あしやの話(当時のサイト名は『瀬良夫婦の言いたい放題』)」の 瀬良ダンナさんからリンクの申し出があり、初めて内輪仲間以外のサイトとのリンクを結ぶことになったこと、 瀬良さんも掲示板に書き込みしてくださることで、少しだけ掲示板が賑わうようになりました。 でもまだまだ静かなものでした。
しばらくラーメンページの宣伝やリンク依頼は、こちらから行わない状態でしたが、 3月には関西ラーメン街道を主宰する『NZえっちゃん』からリンクの依頼がありました。 ラーメン専門のホームページとリンクするのはこれが初めてだったりします。
そして4月には、PAPUAさんからもリンクの申し出があり、また同時期には『あちゃらNAVI』での紹介と、 この頃からアクセス数は1日平均30件程度に増加し、掲示板に書き込みしてくださるユーザーも徐々に増加。 基礎固めが出来たのは、ちょうどこの頃でした。(98年4月)

しかし、喜びもつかの間。5月18日に掲示板のデータが飛んでしまうという事態が発生。 当時の掲示板のシステムに問題があったわけで、これは数ヶ月後にシステムの変更をすることで、 その後はデータすべてが飛んでしまうという事態は避けられました。(個々のデータがいくつか消えるということは今もある…。これはナゾ) 掲示板システムの変更や改良は、その後に登場する悪戯や掲示板荒らしが出没するたびに行われます。


■ サーバーの変更
これまでホームページを入れていたスリーウェブは、テレホーダイ時間帯になると、とにかく重かった。 表示されるのに時間がかかる。そのため、掲載の写真のサイズを小さくし、 画像は控えめにするなど、少しでも表示を軽くさせる苦肉の策を取っていました。
そして、今後のディスク容量の増加に備え、レンタルサーバーを契約することにしました。 これは現在でも続いている「さくらインターネット」という会社のサーバーなのですが、 この「さくらインターネット」は京都府の舞鶴高専の学生が開いたベンチャー企業。 それ聞いた時に、大丈夫だろうか?という心配(倒産など…)があったけど、 値段も安かったため、一か八かで契約してみることにしました。 6月から順次ホームページを移動させ、ラーメンページは6月10日から新サーバーへ完全移行させました。 テレホーダイ時間帯の表示速度については格段に改善され、なんとか安泰…。 とはいえ、数ヶ月後に表示が重くなってしまった。 これは私の入っている同じサーバーに、同人アニメサイトやアダルトサイトが入っていたため、 アクセス集中のために重くなっていたのだった。 しばらくの後、これらのサイトは追い出されたため、元の快適な環境に戻っています。


■ 第2回オフ会
ページ開設から半年になる頃、1日のアクセス数は平均60前後に増加していました。 Yahooに登録されたけれど、アクセスのあまり望めないカテゴリーに入れられてしまったため、 Yahooからのアクセスは、それほど多くはありませんでした。 また、これまで、かもねぎキャッスルをトップページにしていたものを『兵庫まんぷく事典』として ラーメンを含むグルメ情報(食べ放題など)を総括するページをトップに置くことにしました。
また、当時活発にアクセスしていた西宮市在住の主婦・子豚の散歩さんの提案でオフ会を8月に開催することとなりました。 土曜の昼間、午後から、西宮市甲子園の『へそまがり』と、宝塚市中山台の『ラーメン桂』へ行くというもの。 参加者は子豚の散歩さんと子豚さんのダンナさん、川西市在住で『ラーメン桂』の常連・へろおやじさんと、 へろおやじさんの中学生になる娘さん、そして私の5名です。 子豚さんは、なんと私が中学3年当時の同級生のお姉さんだという、 私と意外な繋がりがあったりしました。 子豚の散歩さんの行動力は当時、もの凄く、私がまだ行ってない気になる店のリポートをしてくれたりと、 とにかく大変お世話になりました。
ちなみに第1回オフはこの4ヶ月ちょっと前の3月に実施した姫路オフです。 参加者は私の内輪仲間の『ひよこちゃん』(当時・播磨科学公園都市在住)と『ZATさん』(大阪市在住)と、私の3名だけで、 今は無くなった手柄の『ラーメンの家』と、『希望軒』というコースを回りました。 当時、姫路の希望軒には、ひよこちゃんの友達がバイトしていましたんで、いろいろな話も聞けました。


■ 開設から1年が過ぎて
1998年のあいだ、ラーメン掲示板に色々と投稿してくださった主な方々…
子豚の散歩さん、のまぱぱさん、PAPUAさん、月旧一さん、カフェインさん、へろおやじさん、SHINJIさん、ZATさん、 NZえっちゃん、瀬良さん、MSHIBATAさん、わたなべさん、ムラピーさん、ASADAさん、ブイヨンさん、坂上田健さん、HEY3さん、

今もアクセスされている方が何人もいる反面、まったく姿を見せなくなってしまった方も多い…。 消えてしまった方は元気かな??

さて、ページ開設から1年が過ぎた頃には1日平均70アクセスと、とりあえず開設1年後には1日平均60アクセスという目標は軽く達成してました。 (ちなみに2年後には100、3年後には200というように目指してた。)
特にこれといった問題もなく、2年目へと突入したのでありました…。


■ なりすまし(自作自演)投稿
99年5月になり、一人が複数の人間に化けて投稿する「なりすまし」いわゆる「自作自演」行為が出てきた。 特定の店を誉めたたえる自作自演行為。これについては別項目にも書いている通りです。
その自作自演行為に気づいたのは7月も下旬になってから。
あるラーメン店について、熱心に語る方(これが複数者に化けた自作自演行為)がいたのですが、 その書き込みに対して反論・突っ込みを入れてきた人がいました。 ログを見る限り、この突っ込みを入れてきた人の意見は的確なものでした。 それに対して、某ラーメン店を熱心に語る人物は軽く反論します。 そして新たに登場した擁護メッセージ、それも初投稿者。突然初投稿してまで誰かを擁護するメッセージを書くってことは、 その人物に頼まれて書かれた物か、同一人物であるかというパターンであるのはBBS時代からの慣わしみたいなことになっているので、 リモートホストを調べてみると、今までにこのラーメン店のネタを出してきた人物の半分以上がbiglobe神戸APを経てのアクセスだった。 これには唖然。biglobe神戸からの書き込み者全員が同一人物だとしたら、なんと一人五役していたということになるのだ。 さらにその疑いに追い打ちをかけてきたのが、この人物の書き込みのタイプミスに茶々を入れるメッセージが投稿されたこと。 「美味い」「旨い」を『巧い』と書いていることに対して茶々入れしていたのだが、 ログを確かめてみると、そのタイプミスが妖しいbiglobeユーザー5人中3人に見られた。 こりゃあ間違いない。

0745
--------------------------------------------------------------------------------
掲示板はマナーを守って! 投稿者:かもねぎ 投稿日 : 99年7月27日(火)01時13分00秒

》楓林ラーメン 投稿者:めまーじ 投稿日 : 99年7月26日(月)18時37分17秒
》まずい楓林ラーメン 投稿者:一休さん 投稿日 : 99年7月26日(月)18時04分28秒

お店の批評するのは別にいいんですけど、お二人は同一人物ですね。
こちらのシステムに残ってるログ見ると、同じプロバイダ、同じAP、
同じブラウザで同じシステムのようなので。

最近、どうも一人で複数の人物に化けて投稿する人がいくつも見られます。
先月頃から薄々感じてましたが、今月になって酷くなってます。
そういうことは今後やめてください。
自然と離れていくかなと思ってずっと黙ってきましたが、酷くなる一方です。

最近掲示板の運営に無理がでてきたみたい。
最近、掲示板の管理に疲れてきました・・・。は〜。


この書き込みをしたら、以後しばらくの間、自作自演行為はなくなりました。 しかし、ずうずうしいというか、ゲリラ的にこの某店を誉めたたえるメッセージは投稿され続けました。 別項にも書いている通り、一連のことは店主の仕業であると私は確信しています。 この頃から、この店に対してずっと不信感を抱いています。


■ 忘麺会に参加!
BBS時代、オフ会があるとなったら、もう参加しまくっていたのですが、 インターネットの世界になってBBS時代からの知人が出るオフ会に参加するのがやっとで、 知らない人たちばかりの新しい出会いのあるオフ会に参加しようと言う気力はもうありませんでした。 ウチのページのオフ会にしても誰かの積極的な提案があって、 じゃあ開こうか〜みたいな、そんな感じでの開催だったのでした。
99年の秋も深まった頃、関西最大のラーメンページである『関西愛しのラーメン』内でオフ会(忘年会=望麺会)を開催するという話を、 たかおさんから聞きました。 私はラーメンページを開設する前と後に、ちょこっと程度掲示板に書き込みをしたことがあったのですが、 まったく活動していなかったので、忘麺会に参加する意思は当初、全くありませんでした。 しかし、たかおさん・瀬良ダンナさんも参加する方向でいると知り、ならば私も参加しようか…となりました。 もし、たかおさんと瀬良さんが参加していなかった私はこの望麺会には来ていなかったと思います。
この第1回の望麺会は、大阪・南堀江のボーボー屋という店で開催。 参加人数は30人チョットだったと思います。 幹事役のPAPUAさん、ブイヨンさん、月旧一さん、男どアホうラーメンの「ぽち村さん」さん、西脇さんといった、 うちの掲示板にも書き込みしていた方々のほか、岡山のラーメンの「杉原さん」、 「もと天一ファンさん」、「としむねさん」、そして関西愛しのラーメンの「永井さん」、 あの有名な「大崎さん」「ジャンボさん」などなど、大勢の方々と出会うことができました。
帰りは一部のメンツで作の作へ食べに行ったのですが、私はボーボー屋で食べ過ぎてたために とても食えなかった。取りあえず店まではおつき合いしましたが…。 帰りはPAPUAさんがタクシーで送ってくださるというので、お言葉に甘えて家までタクシーに 乗せて貰いました。が、またPAPUAさんはそのタクシーで大阪まで戻られたのですよね。 甲子園駅まで来た時点でタクシー代は6千円超えでした。



[戻る]